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糊師でありながら、下絵も描ける父(新一)はいよいよ東京友禅の模様師としても活躍するようになっていきます。
父(新一)は自分の技術の下地に「糊」という友禅加工の重要な部分の仕事をしていた為、
数多くの作品制作に携わり、ついには糊師という一職人に飽き足らず、
自ら制作全体を統括する模様師に転身したのだと思います。
そして、戦後、父が模様師に転身した理由はもう一つ有ると思います。
それは、戦争により特に東京は友禅の他の産地、京都や加賀と違い壊滅的な打撃を受け、
戦後すぐに仕事が始められなかった事です。
本来、分業制が確立していた東京友禅の職分が一時的に失われてしまい、
その為、「模様師」が他の職方の仕事を兼ねるという事態が自然発生的に起き、
父は逆に「糊師」から「模様師」に転身しやすかったのだと思います。
東京友禅に限らず、友禅の業界は代々世襲で有ったり、
徒弟制によりある程度の年限、修行の後に師匠から独立の許しを得て、一家を成す事が出来たものです。
それでも、「誰それは、何処で修行した。」とか「誰の弟子」だとか
結構、業界内に在ってはそれ相応にうるさい事も有りました。
「腰原」の名は「糊師」としては「有田屋」の屋号持ちで、東京友禅の業界ではそれなりに知られた名でしたから
父も「誰それの弟子」等という事も無く、自分の才能次第で仕事がしやすかったのだと思います。
「模様師」は自分で「草稿(図案)」を作り、「藍花(青花)」と言う、
熱を加えたり、水に濡れると消えてしまう染料(露草から取った絞り汁)を使います。
「藍花」を和紙に含ませ、塩昆布状の形態にして小皿にのせ、
少し水で湿らし面相筆で下絵を描きます。
そして「糊師」はその下絵通りに「糊置き」をして彩色をします。
父は「糊師」であるにもかかわらず、図案から下絵描き、糊置き、全て自分でこなしました。
流石に「染め」と刺繍だけは専門の職方に頼みましたが、
「箔・金彩」の仕事も自分で器用にこなしました。
手描き友禅染めの反物は先染めでは無く、後染めの引き染めにします。
着物とは不思議な物で洋服と異なり、裁断は直線的です。
初めは幅40p弱の反物となります、普通の着物では長さは鯨尺で最低でも三丈三尺程、
実際にはもう少し長い物も有ります。
これを「ガリ」と呼ばれる器具に生地の両端に掛けて引っ張るのですから、
生地の伸びを見越すと最低でも十七メートル程の長さが染め場として必要です。
数を染めればそれだけ土地の広さは必要で、
東京も都心では少し郊外に行かなければそのような広い土地は無理でした。
また、染屋さんも兼ねようと思えば余程の資本投下が必要でした。
そこで父は最終的には工房を染屋さんの道路一本挟んだ処に移しました。
昭和三十二年父が四十一才の時でした。
場所は新宿区早稲田通り沿い戸塚町で、 駅で言えば山の手線の「高田馬場駅」から
西武新宿線の「落合駅」、「下落合駅」、「中井」、「新井薬師駅」くらい迄の間です。
現在では殆どが廃業して、当時を偲ぶべきもない有様ですが、
近くには材料屋、湯のし屋、蒸し屋、紋屋など
沢山の東京友禅業界に関連する人達が集っていました。
当時、昭和三十二年。父・新一、四十一才。腰原きもの工房の創成期にあたる時代です。
>>第三章へつづく。
>> 第三章 友禅作家 腰原淳策について 昭和38年〜昭和53年 語り:英吾(三代目)
>> 第四章 腰原きもの工房 花小金井南町時代 昭和53年〜平成6年 語り:英吾(三代目)
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